浅草をめぐる日本語情緒<6> 「見世」(みせ=店)で買い物、「寄席」(よせ)で落語(らくご)

仲見世通りは浅草寺の参道にあたる商店街
浅草演芸ホール

浅草をめぐる日本語情緒<6>

「見世」(みせ=店)で買い物、「寄席」(よせ)で落語(らくご)

脚本家(きゃくほんか)として有名な山田太一(やまだたいち)氏は浅草出身で知られています。

小説にも秀作(しゅうさく)があり、『異人(いじん)たちとの夏』は一読をお勧(すす)めしたい作品です。

私は立止(たちどま)った。

なにか見たような気がしたのである。

目の前に地下鉄(ちかてつ)の入口が見えていた。

銀座駅(ぎんざえき)である。地下へおりる階段の上に「渋谷(しぶや)・表参道(おもてさんどう)方面、浅草・上野方面」という二方向の案内(あんない)プレートがとりつけられている。

「浅草」であった。私の足を止めたのは浅草という文字であった。久し振りでその字を見るような気がした。

浅草は私の生地(せいち)である。

浅草へ行ってみよう。私は急に方向を得(え)た思いで、小走りに階段をおりた。

山田太一『異人たちとの夏』(新潮文庫

主人公(しゅじんこう)は、12歳の時に両親を交通事故(こうつうじこ)で亡(な)くした40代の男性。

ある年の8月、30代で死んだはずの父に浅草の寄席(よせ)で出会う。

そして、母にも……。

大林宣彦(おおばやしのぶひこ)監督によって映画化もされました。

お盆(ぼん)に、すき焼きの老舗(しにせ)「今半(いまはん)別館」で、年齢(ねんれい)の釣(つ)り合わぬ親子3人が語り合うシーンはとても印象的(いんしょうてき)です。

異界(いかい)の両親と会うというお盆ならではの設定(せってい)がまた、胸に迫(せま)ります。

仲見世通りの横道にたたずむ「今半別館」

小説で主人公が父と再会した「寄席(よせ)」とは、大衆芸能(たいしゅうげいのう)を客に披露(ひろう)する場所のことです。

主(おも)に落語(らくご)の興行(こうぎょう)を指(さ)すと思われがちですが、他の演芸の披露もあります。

落語以外の演芸は「色物(いろもの)」と呼ばれて区別されています。

『異人たちとの夏』に出てくる寄席は、浅草演芸(えんげい)ホールです。

寄席は、元は「人寄せ席(ひとよせせき)」で、それを略(りゃく)したと言われています。

「寄せる」という動詞が名詞化したものです。

場所だけではなく、「寄席が終わる」などのように、演じることそのものを指す場合もあります。

「人寄せ(ひとよせ)パンダ」という言葉もあります。客(きゃく)を引き寄せる力を持つ人や物のことですが、あまりいい意味では言いません。

実力(じつりょく)が伴(ともな)っていない場合に使われることが多いからです。

ちなみに、「店(みせ)」は商品を「見せる」ので「見世(みせ)」、すなわち「店」となったとも言われています。

浅草にも「仲見世通り(なかみせどおり)」と呼ばれる、よく知られた商店街(しょうてんがい)があります。

日本人だけでなく、海外からの観光客(かんこうきゃく)の多くが仲見世通りで買い物を楽しんでいます。

落語とは、演者(えんじゃ)が口と手振り(てぶり)、身振り(みぶり)だけで客を魅了(みりょう)する話芸(わげい)です。

聞き手の想像力(そうぞうりょく)を掻(か)き立てる技量(ぎりょう)が求(もと)められます。

寄席で行われる落語には、独特(どくとく)の用語があります。

落語で語られる話は「噺(はなし)」です。

落語を演じる人のことを落語家(らくごか)と言いますが、「噺家(はなしか)」という別名もあります。

噺の導入部分(どうにゅうぶぶん)を「枕(まくら)」と言い、「落ち(おち)」「下げ(さげ)」は最後の言葉で、噺の全体を締(し)めて、笑いをとったり、機転(きてん)を利(き)かせたりするセリフのことです。

日常会話(にちじょうかいわ)でも、相手の長話(ながばなし)に対して、「それで、今の話の落ちは結局(けっきょく)何なの?」というように使います。

落語由来(ゆらい)の言葉も豊富(ほうふ)です。

「真打(しんうち)」は、催し物(もよおしもの)の最後に登場(とうじょう)する人物のことを言い、よく宴会(えんかい)でも「いよっ、真打登場」などと言いますが、本来は、最後に落語を演じる実力者(じつりょくしゃ)のことです。

「よいしょ(する)」は、上司(じょうし)などをおだてて持ち上げる(上司などの気持ちをよくさせる)ことを言い、「せこい」上司と言えばケチな上役(うわやく)を言います。

これらは落語界から出た言葉とされています。

浅草の話だけに、あまり深掘(ふかぼ)りせず(浅く)、サッと読み流していただければ幸(さいわ)いです。

すき焼き料理のしにせ「浅草今半」(本店)