浅草をめぐる日本語情緒<11> 秋の名月(めいげつ)、春の花の雲(くも)――俳句(はいく)をたしなむ



浅草をめぐる日本語情緒<11>
秋の名月(めいげつ)、春の花の雲(くも)――俳句(はいく)をたしなむ
名月や 池をめぐりて 夜(よ)もすがら
「俳聖(はいせい)」と称(しょう)される松尾芭蕉(まつおばしょう)の名句(めいく)です。
9月21日は中秋(ちゅうしょう)の名月でした。江戸時代(えどじだい)、芭蕉が活躍(かつやく)したころは(17世紀後半)、現代と違って月明り(つきあかり)も、さぞや美しく光り輝いていたことでしょう。
当時「大川(おおかわ)」と呼ばれた隅田川(すみだがわ)の岸(きし)にあった芭蕉庵(ばしょうあん=芭蕉が住んでいたところ)で詠(よ)まれた俳句(はいく)です。
「夜もすがら」は、夜通し(よどおし)の意味です。
では、夜通し、池をめぐったのは誰でしょうか? もしくは何でしょうか?
それによって、現代語訳(げんだいごやく)が変わってきます。

浅草寺内の弁天堂(左)と時の鐘
現代語訳<1>
空に名月がきれいに輝(かがや)いている。その名月を鑑賞(かんしょう)しながら、私たちは池の周囲(しゅうい)を歩いていた。すると、いつの間にか夜が明けていた。
現代語訳<2-A>
空に名月がきれいに輝いている。その名月が池の周囲を徐々(じょじょ)にめぐっていく。こうした雰囲気(ふんいき)を味(あじ)わいながら友と語り明かしたことよ。
現代語訳<2-B>
池に映(うつ)った名月がきれいに輝いている。その池の名月が、空の名月の動きに合わせて池の周囲を徐々にめぐっていく。天空(てんくう)と池の名月を味わいながら、友と語り明かしたことよ。
俳句はさまざまな意味を想像(そうぞう)して、あれこれ考えながら鑑賞(かんしょう)するのがいいと言いますが、この名句などは、まさにうってつけです。
「俳句をたしなむ。」と言えば、俳句を好(この)んで趣味(しゅみ)として自ら(みずから)詠(よ)んだり、鑑賞したりすることの意味です。
「お酒はたしなむ程度です。」と言えば、好きだけども、そんなに飲むわけではなく、飲んで少し楽しくなるほどです、といったニュアンスでしょうか。
いずれにせよ、俳句をたしなみながら、季節(きせつ)の移(うつ)ろいを感じるのも、またいいものです。
「名月や」の句(く)に詠まれた「池」は芭蕉庵にあったもので、次の有名な句に詠われた池と同じだと言われています。
古池(ふるいけ)や 蛙(かわず)飛び込む(とびこむ) 水の音
「蛙」はカエルです。
あえて現代訳すれば次の通りです。
今、古い池にカエルが飛び込んだ。その水に入った音が聞こえてきて、改(あらた)めて周囲(しゅうい)の静けさに気づき、感動(かんどう)したことよ。
カエルが1匹(ぴき)なのか、複数(ふくすう)なのか、他の言語(げんご)に訳(やく)す時に困(こま)るようです。
日本人的には、1匹で決まりのように感じるのですが……。
ブラジル出身(しゅっしん)の日本語教師にその点を聞いてみたところ、その先生も、1匹だと思うとのことでした。ただ、季節感がまったく分からないと言っていました。
私は、初夏(しょか)あたりじゃないかと思いましたが、調べてみると、「蛙」の季語(きご)は春でした。
季語は、やはりなかなか難しいものです。
ところで、浅草寺内に芭蕉の句碑(くひ)が立っています。

くわんをんの(観音の) いらかを見やりつ 花の雲
「いらか」は屋根(やね)、「花の雲」は満開(まんかい)の桜(さくら)がまるで雲のように限りなく多く見える様子(ようす)です。
病床(びょうしょう)に伏(ふ)していた芭蕉が、東京の深川(ふかがわ)の芭蕉庵から詠んだ句です。
浅草観音(かんのん)の屋根が遠くに見える。それを見やって、観音の周辺には満開の桜が薫(かお)り舞(ま)っていることだろうと思うと、花見(はな
み)にも行けない今のわが身のなんと切(せつ)ないことか。
浅草寺の本堂南東(なんとう)は小高い丘(おか)になっています。そこには弁天堂(べんてんどう)が立っていて、弁天山と言われています。
神奈川県藤沢市(ふじさわし)の江の島(えのしま)、千葉県柏市(かしわし)の布施(ふせ)と、この浅草で、「関東三弁天(かんとうさんべんてん)」と称(しょう)されます。
芭蕉の句碑(くひ)は、刻(きざ)まれた字もよく見えないほどの古さです。建立(こんりゅう)は、1796年10月12日、芭蕉の103回忌(かいき)の時だといいます。
芭蕉は1694年の没年(ぼつねん)です。祥月命日(しょうつきめいにち)は10月12日ですから、来月、328回忌を迎えるということになります。

同じ「花の雲」という季語が詠まれた芭蕉の有名な俳句があります。
花の雲 鐘(かね)は上野(うえの)か 浅草か
「上野」は寛永寺(かんえいじ)、「浅草」は浅草寺(せんそうじ)のことです。
桜(さくら)が満開(まんかい)の季節(きせつ)。鐘の音が聞こえてきたが、これは上野の寛永寺からか、浅草の浅草寺からか。今ごろ上野も浅草も花見(はなみ)の人出(ひとで)でにぎわっていることだろう。
浅草寺にある「鐘」は「時の鐘(ときのかね)」と言います。
浅草寺内の「時の鐘」の下に台東区教育委員会(たいとうくきょういくいいんかい)設置(せっち)の説明版(せつめいばん)があり、そこには次のように記述(きじゅつ)されています。
江戸時代(えどじだい)、人々(ひとびと)に時刻(じこく)を知らせる役割(やくわり)を果(は)たしていたのが時の鐘である。当初(とうしょ)、江戸城内(じょうない)にあったが、江戸市街地(しがいち)の拡大(かくだい)にともない日本橋本石町(にほんばしほんごくちょう)にも設置(せっち)され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。
台東区教育委員会

泰平(たいへい)の世(よ)を謳歌(おうか)した芭蕉。よもや死後(しご)170年の時を経(へ)た幕末(ばくまつ)の世(よ)に、上野の寛永寺が新政府軍(しんせいふぐん)と旧幕臣軍(きゅうばくしんぐん)による争(あらそ)いの舞台(ぶたい)となるとは夢にも思わなかったでしょう。
「上野戦争(うえのそんそう)」とも呼ばれ、旧幕臣らで結成(けっせい)された彰義隊(しょうぎたい)の悲劇(ひげき)は語り草(かたりぐさ)になっています。
夏草(なつくさ)や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(ゆめのあと)
上記(じょうき)の句が詠まれたのは、岩手県(いわてけん)の平泉(ひらいずみ)でのことです。
所(ところ)は違(ちが)えど、まさに「兵どもが 夢の跡」です。彰義隊の残党(ざんとう)はその後、東北戦争、函館(はこだて)戦争へと執念(しゅうねん)と意地(いじ)を見せます。
鐘(かね)の音は響き渡り(ひびきわたり)ませんが、浅草寺内には「平和(けいわ)の時計(とけい)」もあります。

