浅草をめぐる日本語情緒<17> 「きれい」と「美しい」――心を動かされるのはどっち?

上野公園にある東京国立博物館。修学旅行中らしき生徒たちが入館している

浅草をめぐる日本語情緒<17>

「きれい」と「美しい」――心を動かされるのはどっち?

浅草がある東京都台東区(たいとうく)は遺跡(いせき)の発掘(はっくつ)が多いことで有名です。

区のホームページには次のように記述(きじゅつ)されています。

台東区の地形は、上野台地(うえのだいち)とその東側に広がる東京低地(ていち)の二つに大きく分けられ、1万年以前の旧石器時代(きゅうせっきじだい)からの遺跡は上野台地に集中し、貝塚(かいづか)が見られることから縄文時代(じょうもんじだい)には台地周辺が海であったことがわかります。

台東区の遺跡 台東区ホームページ (taito.lg.jp)

浅草国際学院の最寄り駅(もよりえき)の一つは、地下鉄日比谷線(ひびやせん)の入谷駅(いりやえき)ですが、その隣(となり)が上野駅です。その上野駅からすぐの所に、上野公園があります。浅草国際学院から歩いても行けます。

園内にある東京国立博物館(こくりつはくぶつかん)には縄文遺跡が多数所蔵(しょぞう)され、展示(てんじ)も行(おこな)われています。

縄文時代とは、日本の先史(せんし)時代のことです。今から1万6000年前ごろから始まったと推定されています。私たち日本人の祖先(そせん)が、今で言うSDGs、すなわち持続可能(じぞくかのう)な開発目標(かいはつもくひょう))に不可欠(ふかけつ)な生活方式で、長年過ごしてきたとも言われています。

縄文時代の日本人のパワーに影響(えいきょう)を受けた芸術家(げいじゅつか)の一人が、岡本太郎(おかもとたろう)です。

「芸術は爆発(ばくはつ)だ」の名言で有名な画家(がか)であり、彫刻家(ちょうこくか)であり、文筆家(ぶんぴつか)でもあった異能(いのう)の天才(てんさい)です。

太郎は40歳の時(1951年)、東京国立博物館で縄文土器を見て、とてつもない衝撃(しょうげき)を受けました。その時の感動をこんな言葉で残しています。

偶然(ぐうぜん)、上野の博物館に行った。考古学(こうこがく)の資料(しりょう)だけ展示してある一隅(いちぐう)に何ともいえない、不思議(ふしぎ)なモノがあった。ものすごい、こちらに迫(せま)ってくるような強烈(きょうれつ)な表現だ。

何だろう。――縄文時代。

それは紀元前何世紀(きげんぜんなんせいき)というような先史時代の土器(どき)である。驚(おどろ)いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。

これだ!

まさに私にとって日本発見(はっけん)であると同時に、自己(じこ)発見でもあったのだ。

岡本太郎『太郎誕生 岡本太郎の宇宙2』「自伝抄 挑む」「孤独な闘いを開始」(ちくま学芸文庫)

そして3年後、次のように宣言(せんげん)します。

今日(こんにち)の芸術は、うまくあってはいけない。

きれいであってはならない。

ここちよくあってはならない。

岡本太郎『今日の芸術――時代を創造するものは誰か』(光文社)

また、こんな警句(けいく)を残しています。

ゴッホは美しい。しかし、きれいではありません。ピカソは美しい。しかし、けっしてきれいではないのです。

岡本太郎『今日の芸術――時代を創造するものは誰か』(光文社)
東京都美術館で開催中の「ゴッホ展」のポスター(上野公園内)

太郎は、「きれい」と「美しい」を明確(めいかく)に使い分けています。

「きれい」について、彼は「単純(たんじゅん)な形式美(けいしきび)」を指(さ)すと言い切っています。

一方、「美しい」については、不快(ふかい)なものでさえ、ある場合は、「ぞっとする美しさ」を感じるものだと断言(だんげん)しています。

多分(たぶん)に太郎の主観(しゅうかん)が言わせていることだとは思いますが、言い得(え)ている感じがします。

「美しい花を見ました。」だと、誰が見ても形がいいし、崩(くず)れてなくて整(ととの)っているなーという感じでしょうか。

「きれいな花を見ました。」と言えば、他の人は分からないかもしれないけど、自分にとってはすごくインパクトがあり、心ひかれるなーという気持ちでしょうか。

佐々木瑞枝(ささきみずえ)著(ちょ)『何がちがう?どうちがう? 似ている日本語』に次のようにあります。

「美しい」と「きれい」

人の容姿(ようし)にはどちらとも使えるが、「美しい部屋(へや)」(部屋のレイアウトが素晴らしいなど)と「きれいな部屋」(掃除が行き届いている)とでは意味が異(こと)なる。

佐々木瑞枝著『何がちがう?どうちがう? 似ている日本語』 (東京堂出版)

著者の佐々木瑞枝氏は「日本語教育の第一人者」とも称される先達(せんだつ)で、『留学生と見た日本語』(新潮社)など、秀逸(しゅういつ)な著作(ちょさく)のある日本語学者です。

「美しい日本語」という言い方(かた)を聞くことがあります。感情表現の豊(ゆた)かさ、相手を敬(うやま)い、気遣(きづか)う言い回しの多様(たよう)さなどを強調(きょうちょう)したい時に使ことが多いのではないでしょうか。

それに対し、「きれいな日本語」は、流暢(りゅうちょう)に話し、発音(はつおん)が間違っていないというイメージが浮(う)かんできます。

「きれい」と「美しい」――文法では、「きれい」は形容動詞(けいようどうし)、「美しい」は形容詞(けいようし)に分けられます。

日本語教育では「きれい」は「な形容詞」と教えます。「美しい」は「い形容詞」です。

名詞に接続(せつぞく)するときの活用語尾(かつようごび)が「な」(きれいな)と「い」(美しい)だからです。

その単語だけを話題にする場合、辞書(じしょ)に掲載(けいさい)されている形でよく言います。「きれい」や「美しい」です。

岡本太郎も「きれい」と言っています。

ですから、時々、学生が言います。

《学生》先生、「きれい」は最後が「い」だから、「い形容詞」じゃないですか。

そんな時は、日本語教師は便宜上(べんぎじょう)、よく次のように指導します。

《先生》本当に「い」で終わっていますか? 

言ってみますよ。「きれー」「きれー」。

どうですか。最後は「い」ですか? 

違いますね。「え」ですね。「きれー」。

書く時は「い」と書きますが、話す時は「え」です。

同じような、な形容詞を知っていますか?

学生が少し考えて発話(はつわ)します。

《学生》「ていねい(てーねー、丁寧)」

    「ゆうめい(ゆーめー、有名)」

    「しつれい(しつれー、失礼)」

《先生》はい、よくできました。

ちなみに、「美しい」は昔、肉親(にくしん)の情(じょう)を表現する意味で使われていて、今の「いとしい」に近かったと言われています。その後、小さなものへの共感、驚きといった感情を表すようになりました。現代の「かわいい」のような感覚です。

そこからさらに意味が広がっていき、美的なもの全般(ぜんぱん)を指すようになったようです。

何に対しても「かわいい」を連発(れんぱつ)する現代日本人の言語感覚は、大昔から引き継がれてきたものかもしれません。

縄文人(じょうもんじん)は、何を美しいと感じたのでしょうか。どんなきれいなものに心を動かされたのでしょうか。どのようにコミュニケーションをとっていたのでしょうか。

「文化の日」――あれこれと想像(そうぞう)をたくましくする晩秋(ばんしゅう)です。

東京国立博物では今、「マレーシア・イスラーム美術館精選(せいせん)特別企画『イスラーム王朝とムスリムの世界』(2022年2月20日まで)をはじめ、「浅草寺(せんそうじ)のみほとけ」(2021年12月19日まで)など、心を潤(うるお)してくれる様々(さまざま)な展示会(てんじかい)が開かれています。

また、東京国立博物館のすぐ近くにある東京都美術館では現在、「ゴッホ展──響(ひび)きあう魂(たましい) ヘレーネとフィンセント」が開催中(かいさいちゅう)です(2021年12月12日まで)。

東京都美術館では球体のオブジェが迎えてくれる
東京都美術館