浅草をめぐる日本語情緒<20> 100年を超(こ)す伝統(でんとう)ある小学校に「あっぱれ!」

浅草小学校

浅草をめぐる日本語情緒<20>

100年を超(こ)す伝統(でんとう)ある小学校に「あっぱれ!」

浅草のかっぱ橋(ばし)道具街通り(どうぐがいどおり)から言問通り(ことといどおり)を渡(わた)り、一葉桜(いちようざくら)・光月通り(こうげつどおり)に差し掛(さしか)かった右側に、金竜(きんりゅう)小学校があります。

浅草国際学院のすぐ近くで、学院の階上(かいじょう)にある教室(きょうしつ)からは、小学校の運動場(うんどうじょう)が見えます。窓を開けると、児童(じどう)たちの元気な声が飛び込んでくることがあります。

周辺(しゅうへん)には台東区立の小学校がいくつかあります。

大正(たいしょう)小学校は創立(そうりつ)106周年(しゅうねん)です。

大正小学校

田原(たわら)小学校は明治(めいじ)の終わり、1911年の開学(かいがく)で今年110周年の節目(ふしめ)を刻(きざ)んでいます。

田原小学校

金竜小学校は大正元年(がんねん)、1912年の創設(そうせつ)で明年(みょうねん)には110周年となります。

金竜小学校

千束(せんぞく)小学校は創立115周年です。

千束小学校

校舎(こうしゃ)の向(む)かいに浅草富士(あさくさふじ)浅間神社(せんげんじんじゃ)がある富士小学校は1900年の創立(そうりつ)で今年121周年です。

富士小学校
浅草富士浅間神社

そして、最(もっと)も伝統(でんとう)のある浅草小学校は、明治の初めの1873年、東京に最初(さいしょ)に設置(せっち)された小学校の一つで、本年148周年。明後(みょうご)2023年には150周年を迎(むか)えます。とんがり帽子(ぼうし)の時計塔(とけいとう)が目を引く校舎です。

いずれも100年を超える歴史ある小学校です。それゆえ、さまざまな風雪を乗り越えてきました。

100年前の1921年に浅草周辺は大火(たいか)に見舞(みま)われ、各小学校も被害(ひがい)にあいました。

なかでも、富士小学校は3年前に新築(しんちく)されたばかりでした。それが全焼(ぜんしょう)してしまいました。

そして、富士小学校は、1923年6月に鉄筋(てっきん)コンクリート造(づく)りの校舎に生まれ変わりました。

夏休みを経(へ)て、9月1日、いよいよ真新(まあたら)しい校舎に児童たちが入り、新学期の始業式(しぎょうしき)を迎えました。無事(ぶじ)に落慶披露(らっけいひろう)も終えた、その後(あと)のことです。

関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生(はっせい)し、大火災が起きたのです。東京でいち早く不燃構造(ふねんこうぞう)の校舎に建(た)て替(か)わったばかりでしたが、富士小学校は再(ふたた)び無残(むざん)な姿(すがた)になり果(は)て、結局(けっきょく)、児童たちはほとんど使用(しよう)することができなかったのです。

1945年3月の東京大空襲(だいくうしゅう)でも、各校舎の被害は甚大(じんだい)でした。

東京大空襲で被害を受け、戦後、復興赤レンガ校舎が完成したのを記念する富士小学校の石碑

幾多(いくた)の苦難(くなん)を乗り越(こ)え、100年以上、何世代(なんせだい)にもわたって地域(ちいき)の子どもたちを育(はぐく)んできた小学校に、「あっぱれ」と快哉(かいさい)したい気持ちでいっぱいです。

「あっぱれ」の古語(こご)は「あはれ」です。今で言う「あわれ(哀れ)」です。かわいそうだなという感情(かんじょう)を表します。

現代(げんだい)の「あっぱれ」という感覚(かんかく)とは正反対(せいはんたい)のような気がします。

国語学者(こくごがくしゃ)の大野晋(おおのすすむ)が次のように述(の)べています。

実は「あはれ」という言葉は、古くは「アファレ」と発音(はつん)されていた。その「ファ」を強めると「アッパレ」になるんですね。

「あはれ」という言葉は、古くはお見事(みごと)だという意味合(いみあ)いと、悲しいという意味合いと、両方含(りょうほうふく)んでいたと考えていいんですね。

『日本語の世界』第11巻「詩の日本語」付録 大野晋・丸谷才一「<対談>和歌は日本語作る 第2回」(中央公論社)

悲しい思いを踏(ふ)み越え、克服(こくふく)し、さらに努力(どりょく)してこそ、見事(みごと)な結果(けっか)を後世(こうせい)に残(のこ)せる――そうした思いが「あっぱれ」には込(こ)められているようにも感じられます。

千束小学校には作曲家(さっきょくか)の中山晋平(なかやましんぺい)が音楽教師(おんがくきょうし)として赴任(ふにん)し、人気(にんき)を博(はく)しました。後(のち)に学校の依頼(いらい)で校歌(こうか)を作曲しています。

一方(いっぽう)、田原小学校の校歌は、小説家(しょうせつか)であり俳人(はいじん)の久保田万太郎(くぼたまんたろう)が作詞(さくし)しました。田原小学校は彼の母校(ぼこう)です。

3番まである歌の最後(さいご)はすべて「浅草は田原町 田原学校 人ぞ知る」で締(し)めくくられています。「人ぞ知る」という歌詞に、己(おの)が母校の誇(ほこ)りと気概(きがい)が感じられます。

3番は次のような歌詞です。

巷(ちまた)の塵(ちり)は 深くとも

まこと輝く 夕星(ゆうづつ)の

正しき願(ねが)い 我が願い 

浅草は田原町(たわらまち) 田原学校 人ぞ知る

田原小学校校歌(久保田万太郎作詞)

「夕星」とは「ゆうづつ」とも「ゆうつづ」とも読みますが、宵(よい)の明星(みょうじょう)、金星(きんせい)のことです。実に日本情緒(じょうちょ)にあふれた語が選(えら)ばれています。

世間(せけん)は、塵芥(ちりあくた)にまみれた決(けっ)して清浄(せいじょう)なところではないけど、真実(しんじつ)を指(さ)し示(しめ)し、輝(かがや)かせる金星のように、私たちの正しい願いは、何があっても、どこにあっても、世の中に光を与えるのだ――そんな強い気持ちを児童たちに託(たく)したのかもしれません。

「正しい願い」といっても、時代によって変化するものではなく、自らの強い信念(しんえん)といったものを強調(きょうちょう)しているように思えます。

金竜小学校では、毎朝(まいあさ)、児童たちの登校(とうこう)を見守(みまも)る大人(おとな)たちの姿を見かけます。地域で子どもたちを育(そだ)てるその献身に、「あっぱれ」と心の中で叫(さけ)びながら胸(むね)が熱(あつ)くなっています。

金竜小学校前交差点