鉾田(ほこた)をいろどる日本語模様<7> 最後の将軍・徳川慶喜の足跡
最後の将軍・徳川慶喜の足跡

水戸の梅まつりが2月11日(土)に開幕しました。4年ぶりの通常開催です。
会場は偕楽園(かいらくえん)と弘道館(こうどうかん)。偕楽園は「衆と偕(とも)に楽しむ場所」、弘道館は「文武を学ぶ水戸藩校」という意義があり、対をなす施設として設置されました。水戸藩第9代藩主徳川斉昭(なりあき)の発案です。
偕楽園:衆と偕(とも)に楽しむ場所
弘道館:文武を学ぶ水戸藩校
梅まつりにあわせて、偕楽園近くの茨城県立歴史館では一橋徳川家記念室展示「一橋徳川家の幕末維新」が開催されています。
幕末の一橋家といえば、一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)、すなわち、江戸幕府最後の第15代将軍・徳川慶喜です。
「一橋」という姓が、江戸城の門に由来することを、研究員による展示解説で初めて知りました。

慶喜は、徳川斉昭の七男として江戸で生まれ、生後7カ月で水戸に行きました。一橋家を相続するまで、水戸で育ち、弘道館で勉学と武術に励(はげ)む幼少期を過ごしたのです。
いわば、水戸は慶喜の故郷と言えるでしょう。

その水戸へ、大政奉還後、慶喜は帰ることになります。20数年ぶりの帰還でした。
弘道館での謹慎(きんしん)という立場なので、帰郷したという気持ちはなかったかもしれません。
「帰還」という熟語は、「帰る」と「還る」が使われていて、いずれも「かえる」と読みます。このように、似ている意味かつ同じ訓読みの漢字を重ねる熟語は結構あります。
【似ている意味で同訓の漢字を重ねる熟度】
安易 延伸 応答 絵画 歓喜 帰還 堅固
痕跡 早速 思想 収納 柔軟 創作 停止
波浪 飛翔 表現 変換 返還 漏洩 離散
また、「帰る」は、自宅、故郷(実家)、自国など、本拠地へ移動することです。
似た言葉で「戻る」があります。「戻る」は元の場所へ移動することです。
「たった今、帰った来客が、すぐに戻ってきた。忘れ物をしたらしい。」などと言います。
(自宅か自分の会社か移動先は不明だが、たった今、目の前からいなくなった来客が、すぐにまた目の前に現れた。忘れ物があったらしい。)
「還る」は、様々な地点をめぐって最終的に当初の場所に至ることを言います。ただし、常用漢字ではないので、新聞等ではあまり使われません。
「大政奉還」は、大いなる政治権力を朝廷という元の権力保持者に奉(たてまつ)って還す(返す)ことです。
白井家で休憩、田山家で宿泊
徳川慶喜はその後、水戸から静岡へと移動します。その経路について、茨城県立歴史館のホームページに次のような記載があります。
水戸から静岡への移動ルートはどこか。
慶応4年7月19日、水戸弘道館を発す。
19日夕、下町より船で那珂湊(なかみなと)に出、祝町から徒歩で鉾田に至り、船で銚子に出る。
21日、波崎より蟠龍艦(ばんりゅうかん)に乗船。
23日、駿河清水港に上陸、その夕宝台院に入る。
茨城県立歴史館ホームページ https://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/tokugawa/sizuoka.htm
弘道館から静岡の清水港まで、ほぼ船旅ですが、祝町(大洗町)から鉾田までは陸路となっています。
鉾田市内では2カ所、慶喜が立ち寄った場所を記念する案内板が立っています。旧家の白井家と田山家です。



白井家は慶喜が休憩した場所で、その屋敷も現存しています。浅草国際学院茨城校の近くです。田山家は宿泊所でした。史料によると、140人の大規模な宿泊だったようです。門が残っており、向かいには、ホテルさわやが立っています。


ここから、鉾田川、そして北浦を利用する水運ルートで銚子へ抜けたのです。

