鉾田(ほこた)をいろどる日本語模様<8> 読める? 烟田、子生、半原、二重作

読める? 烟田、子生、半原、二重作

3月3日は桃の節句。ひな祭りの日です。

鉾田市にある子生人形店にも、品のあるひな人形がいくつも飾られていました。

「子生」は地名で「こなじ」と読みます。

難読地名は日本どこにでもありますが、鉾田市にもいくつかあります。

1.烟田

2.子生

3.半原

4.二重作

読み方の想像がつく漢字もありますが、結構難しいです。

1.かまた

2.こなじ

3.はばら

4.ふたえさく

烟田は、鎌倉時代の烟田(かまた)氏に由来するそうです。「烟」は「煙」の異体字です。

半原(はばら)は、「はんばら」の「ん」が脱落して、「はばら」でしょうか。

二重作(ふたえさく)は、南北朝期に「二重佐古」という村があり、それとの関連が考えられるようです。

さて、子生ですが、「子をなす」ことから「こなじ」だそうです。「子生の弁天様」と呼ばれる厳島(いくつしま)神社があり、安産の神社として親しまれていたというのです。

この神社は、広島の厳島神社から分霊を迎えたと言い伝えられています。安芸の宮島の、海に浮かぶような鳥居が有名で、世界遺産に登録された神社です。

子生の厳島神社も、水上に本殿が浮かんでいるように見えます。

幕末の思想家・吉田松陰の遺馨(いけい)

この子生の厳島神社に、幕末の思想家・吉田松陰(しょういん)の当地訪問を記念する石碑が立っています。

石碑には「遺馨」(いけい)という文字が刻まれています。「馨」とは、香りのことで、そこから意味が広がって、評判や感化といった意味を持っています。つまり、「遺馨」は残り香のように、先人が後世に残した記録と言えるでしょう。

水戸市内にも松陰の留学の地を示す記念碑があります。松陰が1カ月にわたり滞在した水戸藩士宅のあった場所です。まさに、留(とど)まって学んだわけです。

案内板には「水戸の青年有志と交わり、水戸の学問の真髄を学んだといわれる。」と記載されています。

吉田松陰は満29歳でこの世を去りました。安政の大獄という歴史的な事件の犠牲者です。

松陰が大切にした言葉に「至誠にして動かざるものは未だ之(これ)あらざるなり」とあります。元は『孟子』の至言です。

松陰に教育され、感化を受けた幕末の志士たちが討幕を図り、最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)の将軍就任も満29歳でした。松陰の死から7年数カ月後のことです。慶喜の「誠(まこと)」と大書した扁額(へんがく)が残されています。

「誠」を貫こうとした偉人2人の足跡が鉾田市に刻まれているのです。