浅草をめぐる日本語情緒<23> 紙を漉(す)き、紙を洗(あら)う――庶民(しょみん)に愛用(あいよう)された「浅草紙(あさくさがみ)」

紙の製造が行われていた名残りを示す「紙洗橋交差点」

浅草をめぐる日本語情緒<23>

紙を漉(す)き、紙を洗(あら)う――庶民(しょみん)に愛用(あいよう)された「浅草紙(あさくさがみ)」

浅草茅町(かやちょう=現在の浅草橋付近)の生まれで、大正から昭和初期を代表する日本画家(がか)の速水御舟(はやみ・ぎょうしゅう)は、その著(ちょ)『絵画(かいが)の真生命(しんせいめい)』で画材(がざい)としての紙について、次のように述(の)べています。

紙には様々(さまざま)の種類(しゅるい)があって、それが夫(そ)れ夫(ぞ)れの特徴(とくちょう)を持ち、従(したが)って描(えが)く時の絵具(えのぐ)の附(つ)き方(かた)が違って行く。それだけに描く場合はその紙の性質(せいしつ)に対する心構(こころがま)えが必要(ひつよう)である。」(現代表記に改めました。)

速水御舟『絵画の真生命』(中央公論美術出版)

速水の代表作「炎舞(えんぶ)」は絹(きぬ)に描かれましたが、同じく重要文化財(じゅうようぶんかざい)の「名樹散椿(めいじゅちりつばき)」は紙に描かれた名作(めいさく)です。

12月16日は「紙の日」です。1875年(明治8年)、紙を製造(せいぞう)する会社の工場が稼働(かどう)した日にちなんでいるそうです。実業家(じつぎょうか)・渋沢栄一(しぶさわえいいち)によって官営(かんえい)から民営(みんえい)へと移行(いこう)した会社で、現在の王子製紙(おうじせいし)の前身(ぜんしん)です。

田原町(たわらまち)はかつて浅草田原町と言っていましたが、その辺(あた)りは江戸時代、農閑期(のうかんき)に紙の生産(せいさん)が盛(さか)んでした。俗(ぞく)に「紙漉町(かみすきちょう)」とも言ったそうです(東京都台東区『下谷・浅草町名由来考』)。

田原町と言えば、以前紹介した浅草出身(しゅっしん)の作家(さっか)・山田太一(やまだ・たいち)氏が、『異人(いじん)たちとの夏』で次のように触(ふ)れています。主人公(しゅじんこう)の思いです。

テレビのニュースでタワラチョウといったアナウンサーがいて、小さく侮辱(ぶじょく)を感じたことを思い出す。故郷(こきょう)をないがしろにされたという感じを抱(いだ)いたのである。

『タワラマチだ』

ろくに来もしないのに、小さな故郷意識(いしき)があるのだった。

山田太一『異人たちの夏』(新潮文庫)
銀座線の田原町駅出入口

古くからの言い伝(つた)えに「紙は寒漉(かんす)き」という言葉(ことば)があります。

紙は寒漉(かんす)き

紙の製造に必要な工程として「漉(す)く」という作業(さぎょう)があるのですが、これは冬の寒いときに行うと、良質(りょうしつ)な紙が出来上(できあ)がることから出た至言(しげん)です。

では、「漉く」とは何か。

手持ちの辞(じしょ)書を手繰(たぐ)ると「水に溶(と)かした原料(げんりょう)をうすく簀(す)の上にしいて紙をつくる」(『大辞林』)とあります。

この説明(せつめい)だとよく分かりません。

ここで言う「原料」とは、例(たと)えば字などが書かれた古い紙のことです。「簀」は竹や葦(あし)を粗(あら)く組(く)んだものです。

つまり、「漉く」とは古い紙をいったん水に溶かして簀の子に薄(うす)く伸ばして敷(し)いて乾(かわ)かし、新しい紙を再生(さいせい)させる技術(ぎじゅつ)のことなのです。

イメージしやすく簡単(かんたん)に言うなら、古い紙を溶かして洗(あら)って乾かすといった感じでしょうか。

東浅草1丁目には、紙洗橋(かみあらいばし)という橋があったことを記念(きねん)する碑(ひ)が立っており、紙洗橋交差点(こうさてん)も現存(げんそん)します。

記念碑には「かみあらいはし」と平仮名(ひらがな)で書いてあるものがありますが、交差点は「KAMIARAIBASHI」となっています。「橋」を「はし」と読んだり、「ばし」と読んだりしているのです。

江戸の昔、山谷堀(さんやぼり)という水路(すいろ)があり、その水を利用して紙漉きが行われていました。今は埋(う)め立てられ、山谷堀公園(こうえん)となっています。

江戸は着る物のリサイクル業が発達(はったつ)していた時代です。

環境(かんきょう)に優(やさ)しい社会であったと評価(ひょうか)されるゆえんですが、紙も重要(じゅうよう)なリサイクル商品(しょうひん)でした。

中でも「浅草紙(あさくさがみ)」と言えば、あまり良質(りょうしつ)ではない茶色(ちゃいろ)っぽい紙として有名で、庶民(しょみん)に重宝(ちょうほう)がられていました。

今で言うティッシュペーパーやトイレットペーパーの感覚(かんかく)に近く、鼻紙(はながみ)、落(お)とし紙として有用(ゆうよう)でした。

学研(がっけん)科学創造(かがくそうぞう)研究所のサイト「お江戸の科学」で、浅草紙の製造法について次のように記(しる)されています。

落とし紙(トイレットペーパー)などに使われていた浅草紙は、江戸時代の庶民に親(した)しまれていた安価(あんか)な漉(す)き返(かえ)し紙。かえってそのためか、現存(げんそん)するものはとても珍(めず)しい。製造方法は、墨(すみ)が付いた古紙(こし)を水に浸(した)し、叩(たた)いてくだき、漉(す)く程度(ていど)の、非常(ひじょう)に簡単なもの。良く見ると文字が書かれたままの紙片(しへん)や、人の髪(かみ)の毛(け)なども混(ま)じっている。

(学研科学創造研究所のサイト「お江戸の科学」より https://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/02/haiken.html

世界文化遺産(せかいぶんかいさん)として賞賛(しょうさん)される「和紙(わし)」ですが、高級和紙を頂点(ちょうてん)とする和紙文化には、浅草紙のような生活に欠(か)かせない庶民文化があったことを忘(わす)れてはいけないと思います。

科学者の寺田寅彦(てらだ・とらひこ)に「浅草紙」という随筆(ずいひつ)があります。

寺田は、1枚の浅草紙を手に取り、つくづくと眺(なが)めました。

紙片(しへん)の外にまださまざまの物の破片(はへん)がくっついていた。木綿糸(もめんいと)の結(むす)び玉(だま)や、毛髪(もうはつ)や動物(どうぶつ)の毛らしいものや、ボール紙のかけらや、鉛筆(えんぴつ)の削(けず)り屑(くず)、マッチ箱(ばこ)の破片、こんなものは容易(ようい)に認(みと)められるが、中にはどうしても来歴(らいれき)の分らない不思議(ふしぎ)な物件(ぶっけん)の断片(だんぺん)があった。

斜(なな)めに日光(にっこう)にすかして見ると、雲母(うんも)の小片(しょうへん)が銀色(ぎんいろ)の鱗(うろこ)のようにきらきら光っていた。

何の関係(かんけい)もない色々(いろいろ)の工場で製造された種々(しゅじゅ)の物品(ぶっぴん)がさまざまの道を通(とお)ってある家の紙屑籠(かみくずかご)で一度集合(しゅうごう)した後に、また他の家から来た屑(くず)と混合(こんごう)して製紙場(せいしじょう)の槽(ふね=容器)から流れ出すまでの径路(けいろ)に、どれほどの複雑(ふくざつ)な世相(せそう)が纏綿(てんめん=複雑に入り混じっていること)していたか、こう一枚の浅草紙になってしまった今では再(ふたた)びそれをたどって見るようはなかった。私はただ漠然(ばくぜん)と日常(にちじょう)の世界に張(は)り渡(わた)された因果(いんが)の網目(あみめ)の限(かぎ)りもない複雑さを思い浮(うか)べるに過(す)ぎなかった。

『寺田寅彦全集 第三巻』「浅草紙」(岩波書店)

1枚の紙から「因果の網目」に思いを致(いた)すとは、さすが物理学者(ぶつりがくしゃ)にして文筆(ぶんぴつ)の才(さい)ある傑士(けっし)の視点(してん)は、実(じつ)に鋭(するど)く深いものがあります。

次のようにも述(の)べています。

魔術師(まじゅつし)でない限り、何もない真空(しんくう)からたとえ一片(いっぺん)の浅草紙でも創造(そうぞう)する事(こと)は出来(でき)そうに思われない。

『寺田寅彦全集 第三巻』「浅草紙」(岩波書店)

無(む)から有(ゆう)は生(しょう)ぜず。何の努力(どりょく)もなくして大成(たいせい)も無(な)し――冬の冷(つめ)たい水作業(みずさぎょう)に耐(た)えてこそ人様(ひとさま)に喜(よろこ)んでもらえる物が出来る。そんな風(ふう)に聞こえてきます。

浅草は海苔(のり)も昔から有名です。こんな川柳(せんりゅう)もあります。

浅草は両部(りょうぶ)と見へて紙とのり

片田實(かただ・みのる)著『浅草海苔盛衰気(せいすいき)―海苔の五百年―』に海苔の製法についての記述(きじゅつ)があります。

浅草で隅田川(すみだがわ)の清流水(せいりゅうすい)を使って、浅草紙の抄(す=漉)き方(かた)、乾燥法(かんそうほう)を真似(まね)て浅草海苔は作られたとみられる。簡単に言うと、刻(きざ)んだ生(なま)海苔を真水(まみず)にといておき、簀(す)をはめ込(こ)んだ枠(わく)に、あるいは上下二つの枠に簀を挟(はさ)んで、上からノリを入れ、水槽(すいそう)に張(は)った真水の表面(ひょうめん)で、簀枠(すわく)をぶるぶるとゆすぶって、ノリを枠内に平均(へいきん)に行き渡(わた)らせて、静かに引き上げるのである。

片田實『浅草海苔盛衰気―海苔の五百年―』(成山堂書店)

海苔も「漉(す)く」のです。

海苔の製造もまた冬の冷たい手作業でした。人知(ひとし)れず積(つ)んだ労苦(ろうく)の数々(かずかず)が、やがて形(かたち)となって世(よ)を潤(うるお)します。

庶民が愛用(あいよう)した浅草紙と、高級(こうきゅう)嗜好(しこう)食材(しょくざい)だった浅草海苔は、大きさが同じだったようです。

今も、ティッシュとほぼ同じ大きさの海苔があります。

ティッシュペーパーの上に重ねた焼き海苔