浅草をめぐる日本語情緒<8> 雲(くも)を凌(しの)ぐ「浅草十二階(じゅうにかい)」を忘(わす)れない

浅草雲凌閣(浅草十二階)の跡地に立つ建物。壁面に絵がある
2018年の工事中に発見された浅草凌雲閣 のレンガ
浅草凌雲閣の跡地からは現代の高層建造物である東京スカイツリーが見える

浅草をめぐる日本語情緒<8>

雲(くも)を凌(しの)ぐ「浅草十二階(じゅうにかい)」を忘(わす)れない

9月1日は、1923年(大正12年)に関東大震災(かんとうだいしんさい)が発生(はっせい)した日です。

「天災(てんさい)と国防(こくぼう)」と題(だい)し、次のように随筆(ずいひつ)につづったのは、物理学者(ぶつりがくしゃ)であり文筆家(ぶんぴつか)でもあった寺田寅彦(てらだとらひこ)です。

戦争(せんそう)はぜひとも避(さ)けようと思えば人間の力(ちから)で避けられなくはないであろうが、天災(てんさい)ばかりは科学の力でもその襲来(しゅうらい)を中止させるわけには行かない。

小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集第五巻』「天災と国防」(岩波文庫)

浅草は関東大震災で壊滅的(かいめつてき)な惨劇(さんげき)に見舞(みま)われました。大火災(だいかさい)が被害(ひがい)を広げた理由の一つでした。

その渦中(かちゅう)、浅草の人々は力を合わせ、浅草寺(せんそうじ)の延焼防止(えんしょうぼうし)に懸命(けんめい)に取り組んだことが『大正震災志(たいしょうだいしんさいし)』に記録として残っています。

現代語で要約(ようやく)すると次のように書かれています。

9月2日午前1時には浅草六区を挙(あ)げて一連の猛火(もうか)と化(か)し、まったく手の下(くだ)しようもなかった。

貯水池(ちょすいち)の水を利用(りよう)して皆がしきりに防火(ぼうか)に努(つと)め、そのかいあって被害(ひがい)をまぬかれた。また、震災当日(とうじつ)、公園には十万もの人が避難(ひなん)したが、その多数の荷物(にもつ)に飛火(とびひ)した火を、衆人(しゅうじん)の協力(きょうりょく)によって貯水でもって消し止めた。

『大正震災志』(内務省社会局)より

寺田寅彦の有名な言葉に「天災(てんさい)は忘れたころにやってくる。」という警句(けいく)があります。現存(げんそん)している寺田の著述類(ちょじゅつるい)には、この言葉は一切(いっさい)なく、弟子(でし)たちが後(のち)に紹介(しょうかい)し、世(よ)に広まったといいます。

天災は忘れたころにやってくる。

一方、彼が幼少時代(ようしょうじだい)を過(す)ごした高知市(こうちし)にある寺田寅彦記念館(きねんかん)には、次のように刻(きざ)まれた石碑(せきひ)が設置(せっち)されています。

天災は忘れられたる頃(ころ)来る。

「忘れた」ではなく、「忘れられたる」。完了(かんりょう)の「たる」(たり)が使われているので、今なら「忘れられてしまった」と言うところでしょうか。

「忘れた」の主語(しゅご)は「人」なので、「人が忘れたころに天災というものは来るものだ」の意味だと解(かい)することができます。「人」に対する「忘れてはいけない」との訓戒(くんかい)が見えます。

では、受身形(うけみけい)の「忘れられたる」(忘れれられてしまった)の場合は、どうでしょうか?

元カレ(元カノ)を忘れるより、自分が忘れられてしまう方が、感情的(かんじょうてき)にこたえるものではないでしょうか。受身形には、そんな感情の振れ幅(ふれはば)があります。

「雨が降(ふ)って困(こま)った。」というより、「雨に降られて困った。」の方が、嫌(いや)な気持ちが伝わってきます。

そこで寺田の言葉です。「忘れられたる」と「くる」という術語(じゅつご)に対応する主語は、いずれも「天災」です。

「天災というものは〈その被害実態(ひがいじったい)どころか、発生事実(はっせいじじつ)さえ〉忘れられてしまったころに来るものだ」という風に感じられます。

もちろん、「人によって(天災は)忘れられる」わけですが、受身形で示されることによって、かえって「人」に対する訓戒(くんかい)の度合い(どあい)が強調(きょうちょう)されているように思えます。あくまで私感(しかん)ですが、そう感じてなりません。

「絶対に、何があっても、私たちは、あの震災の悲惨(ひさん)さを忘れてはならないのだ」と。

「浅草十二階」と呼ばれた展望塔(てんぼうとう)・浅草凌雲閣(りょうんかく)は、まさに雲(くも)をも凌(しの)ぐばかりの浅草の象徴的(しょうちょうてき)な建物でした。日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも有名だったそうです。

この建物の開業(かいぎょう)から3年半ほど後、1894年(明治27年)6月20日、東京を比較的大きな地震が襲(おそ)いました。

佐藤健二(さとうけんじ)著『浅草公園凌雲閣十二階 失われた〈高さ〉の歴史社会学』には、翌日、翌々日の新聞に、凌雲閣に関する記事が目立ったことが記(しる)されています。

「亀裂(きれつ)」「生きたる心地(ここち)もなく」「一昨日の大地震には人々の最(もっと)も危(あや)ぶみしは浅草の凌雲閣」などの活字(かつじ)が躍(おど)ったといいます。

同書にはこんな記述(きじゅつ)もあります。

高塔(こうとう)凌雲閣の存在には、そのどっしりした煉瓦建築(れんがけんちく)の堅牢(けんろう)さへの基本的な信頼(しんらい)と、崩壊(ほうかい)するかもしれないという拭(ぬぐ)いがたい不安とが、まさに両義性(りょうぎせい)をたもって相互依存的(そうごいぞんてき)に結(むす)びついていた。(「両義性をたもって相互依存的に」に強調の傍点(ぼうてん)あり)

佐藤健二『浅草公園凌雲閣十二階 失われた〈高さ〉の歴史社会学』(弘文堂)

開業から33年後、浅草十二階は関東大震災で8階から上が倒壊(とうかい)しました。

関東大震災で倒壊した浅草凌雲閣(防災科学技術研究所提供)

そして、半壊状態(はんかいじょうたい)だったこの展望塔は、大震災から7年後、そのすべてが爆破(ばくは)されたのです。

寺田寅彦は、その爆破される現場(げんば)にいました。その感想を、感慨深(かんがいぶか)げにこう記しています。

震災後復興(ふっこう)の第一歩として行(おこ)なわれた浅草凌雲閣の爆破を見物(けんぶつ)に行った。

小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集第二巻』「LIBER STUDIORUM」 (岩波文庫)

その後、東京は復興の道を歩(あゆ)んでいきます。凌雲閣の存在は世代(せだい)を経(へ)るにしたがって忘れられていきます。今の若い人のどのくらいが知っているでしょうか。

「凌(しの)ぐ」は、押し分けて前へ進むことが元(もと)の意味です。能力(のうりょく)が優(すぐ)れていて他者(たしゃ)を追い越して上に行く様子(ようす)も表(あらわ)します。

押し分ける対象(たいしょう)を、「現在の困難(こんなん)」ととらえる時、その困難を乗り越えて進むという意味になります。そこから、今の困難を何とか我慢(がまん)し、辛抱(しんぼう)し、堪(た)え忍(しの)んで切り抜けることも指(さ)すようになりました。

2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災から10年半になります。今なお数万人の避難者(ひなんしゃ)の方々(かたがた)がいます。

ここ数年、夏の大雨による甚大(じんだい)な被害(ひがい)も続いています。

コロナの感染拡大(かんせんかくだい)もワクチン接種(せっしゅ)が進んでいるとはいえ、まだまだ収束(しゅうそく)にはおぼつかない状態です。

今の困難な状況を何とか凌(しの)ぎ、雲を突(つ)く展望塔から眼下(がんか)の風景(ふうけい)を眺望(ちょうぞう)するような、晴れ晴れ(はればれ)とした気持ちになる日を願(ねが)って、前へ前へ進んでいきたいものです。