浅草をめぐる日本語情緒<22> 彰義隊(しょうぎたい)、新選組(しんせんぐみ)、新徴組(しんちょうぐみ)――お巡(まわ)りさんの誕生(たんじょう)

上野公園

浅草をめぐる日本語情緒<22>

彰義隊(しょうぎたい)、新選組(しんせんぐみ)、新徴組(しんちょうぐみ)――お巡(まわ)りさんの誕生(たんじょう)

先日、浅草警察署(けいさつしょ)の方々(かたがた)が来校(らいこう)され、留学生(りゅうがくせい)のための講習会(こうしゅうかい)が開催(かいさい)されました。その際(さい)、防犯(ぼうはん)の心得(こころえ)とともに、地震(じしん)や災害(さいがい)への備(そな)えの大切(たいせつ)さもアドバイスしてくださいました。

台東区は低地(ていち)も多いのですが、万一(まんいち)、大雨による浸水被害(しんすいひがい)があっても、上野公園一帯(いったい)は高地(こうち)にあり、安全(あんぜん)だとも教えてくださいました。

上野動物園

パンダで有名な上野動物園(どうぶつえん)がある「上野公園」は通称(つうしょう)で、正式名称(せいしきめいしょう)は「上野恩賜(おんし)公園」と言います。「上野の森」「上野の山」とも呼ばれ、都民(とみん)の憩(いこ)いの場所です。日本で最初(さいしょ)の都市(とし)公園でもあります。

園内に設置(せっち)された案内板(あんないばん)によれば、「恩賜(おんし)」について次のように解説(かいせつ)されています。

「上野恩賜公園」という町名があった

恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地(ていしつごりょうち)だったものを東京市へ下賜(かし)されたことにちなんでいる。その後(ご)規模(きぼ)・景観(けいかん)はもとより施設(しせつ)など我が国有数(ゆうすう)の都市型公園として整備(せいび)された。面積(めんせき)六十二万平方(へいほう)メートル余(あま)り。

上野公園生(う)みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設(びょういんけんせつ)予定地(よていち)であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府(せいふ)に進言(しんげん)したものである。

旧町名由来案内より

上野公園内には動物園(どうぶつえん)をはじめ、博物館(はくぶつかん)、美術館(びじゅつかん)、資料館(しりょうかん)など多彩(たさい)な文化施設(しせつ)が設置(せっち)されています。国立(こくりつ)、都立(とりつ)、区立(くりつ)、民間(みんかん)など様々(さまざま)です。

「野球(のボール)」を雅号(がごう)として用(もち)いた俳人(はいじん)の正岡子規(まさおか・しき)を記念(きねん)する「正岡子規記念球場(きゅうじょう)」もあります。「野球」は子規の本名(ほんみょう)「升(のぼる)」からの発想(はっそう)だそうです。

正岡子規記念球場

まり投げて見たき広場や春の草

正岡子規

しかし、「ベースボール」を訳(やく)しての「野球(やきゅう)」という語(ご)の名付(なづ)け親は中馬庚(ちゅうまん・かなえ/ちゅうま・かのえ)という人で、「打者」(バッター)、走者(ランナー)、死球(デッドボール)などの訳語は子規が考案(こうあん)したとされています。

明治維新(めいじいしん)の立役者(たてやくしゃ)である西郷隆盛(さいごう・たかもり)の有名な銅像(どうぞう)もあります。

西郷隆盛の銅像。明年で竣工から125年になる

そして、彰義隊(しょうぎたい)の墓(はか)が歴史(れきし)を映(うつ)すように佇(たたず)んでいます。

大政奉還(たいせいほうかん)をした徳川幕府(とくがわばくふ)最後の将軍(しょうぐん)・慶喜(よしのぶ)が慶応(けいおう)4年(1868年)2月、上野の寛永寺(かんえいじ)に入り謹慎(きんしん)を始めました。すると、彼の助命嘆願(じょめいたんがん)をする者や官軍(かんぐん)に不満(ふまん)を抱(いだ)く武士(ぶし)らが集(つど)うようになりました。

寛永寺

『台東区史』に「彰義隊」の命名について下記のようにあります。

二月二十三日、第四回の会合(かいごう)は尊王恭順(そんのうきょうじゅん)有志会(ゆうしかい)の仮称(かしょう)で、浅草本願寺(ほんがんじ)で開(ひら)かれ、阿部杖策(あべ・じょうさく=床机廻〈しょうぎまわ〉り・砲兵士官〈ほうへいしかん〉)の発案(はつあん)で「彰義隊」と呼ぶことにした。忠孝信義(ちゅうこうしんぎ)の義(ぎ)を彰(あらわ)し、義のために戦うという表現のなかに、床机(しょうぎ)の隊(たい)という意味がそこに潜(ひそ)められていたと考えられる。

『台東区史 通史編Ⅱ(下巻)』(東京都台東区)
浅草本願寺(東本願寺)

さらに『台東区史』には次のような記述もあります。

西郷の決断(けつだん)による江戸無血開城(えどむけつかいじょう=四月十一日)とその延長線(えんちょうせん)としての上野彰義隊不討伐帰順(ふとうばつきじゅん)の方針(ほうしん)に対して、この路線(ろせん)に真向(まっこう)から反対していたのが長州(ちょうしゅう)の大村(益次郎〈おおむら・ますじろう〉/村田蔵六〈むらた・ぞうろく〉)である。その大村が木戸孝允(きど・たかよし/準一郎〈じゅんいちろう〉)の推挙(すいきょ)によって軍防事務局(ぐんぼうじむきょく)判事(はんじ)に任命(にんめい)され(四月二十七日)、江戸に着任(ちゃくにん)するや、事態(じたい)は一変(いっぺん)した。(日付、名前を補いました)

『台東区史 通史編Ⅱ(下巻)』(東京都台東区)

そして5月15日、上野戦争で政府軍に抗戦(こうせん)した結果、彰義隊はわずか半日で敗(やぶ)れ去(さ)ります。

隊士の墓は現在、歴史的記念碑(きねんひ)として、東京都によって管理(かんり)されています。

彰義隊の墓

幕末(ばくまつ)と言えば、「新選組(しんせんぐみ)」を思い浮(う)かべる向(む)きも多い。討幕運動(とうばくうんどう)の志士(しし)たちを震(ふる)え上がらせた京(きょう)の街(まち)の警備隊(けいびたい)であり、いわば幕府の警察(けいさつ)のような役割(やくわり)を担(にな)った者(もの)たちで、今でもその名が轟(とどろ)いています。

都立浅草高等学校のすぐ近く、今戸神社(いまどじんじゃ)に一番隊組長・沖田総司(おきた・そうじ)の終焉(しゅうえん)の地を示(しめ)す記念碑があります。

今戸神社境内にある「沖田総司終焉之地」の碑

新選組の知名度(ちめいど)と違い、「新徴組(しんちょうぐみ)」はあまり知られていません。この新徴組は江戸の街の警備隊でした。新選組と元(もと)は同じ浪士隊(ろうしたい)と呼ばれた組織(そしき)から誕生(たんじょう)しました。沖田総司の義兄(ぎけい)である沖田林太郎(おきた・りんたろう)などが知られています。

新徴組は江戸市中の取(と)り締(し)まりに努(つと)めました。浅草もその範囲(はんい)に入っていました。

『新徴組の真実にせまる』には次のような事実(じじつ)が記録(きろく)されています。

〔慶応三年十月]忍(しの)び巡(まわ)りの際(さい)、浅草猿若町(さるわかちょう)の自身番(じしんばん=交番のような施設)にて夜半(やはん)の弁当食事中(べんとうしょくじちゅう)、只今(ただいま)強盗(ごうとう)二、三人入(い)りたるとの注進(ちゅうしん=報告)を受けたることあり。……

この咄(はなし)は市中評判(ひょうばん)となりたることあり。……

当時(とうじ)新徴組が機敏(きびん)なりと評判せられし一例として記載(きさい)します。

千葉弥一郎原著・西脇康編著『新徴組の真実にせまる 最後の組士が証言する清河八郎・浪士組・新選組・新徴組』(文学通信)

新徴組は庄内藩(しょうないはん)見廻組(みまわりぐみ)と共(とも)に、江戸市中を見回りました。現在の山形県鶴岡市(やまがたけんつるおかし)を拠点(きょてん)とした庄内藩の指揮下(しきか)に置(お)かれていたのです。

その「御見廻(おみまわり)」という役目(やくめ)の表現(ひょうげん)から「おまわりさん」と呼ばれ、信頼(しんらい)を得(え)ていきました。今でも警察官(けいさつかん)のことを「おまわりさん(お巡りさん)」と呼ぶのは、ここから来ているようです。

フランス革命(かくめい)を題材(だいざい)とする作品(さくひん)が多い佐藤賢一(さとう・けんいち)氏の小説に『新徴組』(新潮社)があります。著者(ちょしゃ)の佐藤氏は鶴岡市(つるおかし)の生(う)まれです。

小説『新徴組』には「おまわりさんが通(とお)るからには稼(かせ)ぎどきだぜ」と、見廻りが行われている間は安心(あんしん)して商売(しょうばい)に励(はげ)むことができ稼げる、と喜(よろこ)ぶ庶民(しょみん)の声を紹介(しょうかい)しています。

こうして新徴組の面々(めんめん)は明治維新前後、庄内藩と運命(うんめい)を共にし、東北戦争(とうほくせんそう)にも従軍(じゅうぐん)し、数奇(すうき)な人生(じんせい)を辿(たど)ることになるのです。