浅草をめぐる日本語情緒<25> テストのときは間違(まちが)いが「あるか」?「ないか」? よく確認(かくにん)を!

浅草をめぐる日本語情緒<25>

テストのときは間違(まちが)いが「あるか」?「ないか」? よく確認(かくにん)を!

「浅草検定(けんてい)」という検定試験(しけん)があります(浅草検定委員会主催)。

日本検定財団(ざいだん)のホームページhttps://nihonkentei.or.jp/asakusa/sample/によると、「お試(ため)し問題(もんだい)!」として次のような例題(れいだい)があります。

『にごりえ』『たけくらべ』などで著名(ちょめい)な明治の女流作家(じょりゅうさっか)の原稿(げんこう)や遺品(いひん)などを集めた資料館(しりょうかん)の名前は?

〇一葉記念館(いちようきねんかん)

〇明治記念館(めいじきねんかん)

〇下町風俗資料館(したまちふうぞくしりょうかん)

〇日本近代文学館 (にほんきんだいぶんがくかん)

https://nihonkentei.or.jp/asakusa/sample/

現在の雷門(らいもん=風雷神門〈ふうらいじんもん〉)は、昭和35年、95年ぶりに復興再建(ふっこうさいけん)されましたが、この門を寄進(きしん)したのは誰(だれ)でしょう?

〇猿若勘三郎(さるわか・かんざぶろう)

〇松本幸四郎(まつもと・こうしろう)

〇松下幸之助(まつした・こうのすけ)

〇大谷米太郎 (おおたに・よねたろう)

https://nihonkentei.or.jp/asakusa/sample/

初級(しょきゅう)は無料(むりょう)でWEB上の受験(じゅけん)が可能(かのう)で、中級・上級は有料(ゆうりょう)で会場受験となります。

浅草の歴史(れきし)、文化(ぶんか)、観光資源(かんこうしげん)などを勉強(べんきょう)して挑戦(ちょうせん)してみてはいかがでしょうか。

雷門前に立つ浅草文化観光センターは、世界的建築家の隈研吾(くま・けんご)氏による設計。外観は木造建築の様相を呈している

さて、樋口一葉(ひぐち・いちよう)の『たけくらべ』は雅俗折衷対体(がぞくせちゅうたい)と言われる文体で認(したた)められています。文語体(ぶんごたい)の「雅(が)」と口語体(こうごたい)の「俗(ぞく)」が合わさった文体です。

『たけくらべ』にこんな件(くだり)があります。オモドックの「コドモブックス」シリーズから、原文(げんぶん)と現代意訳文(げんだいいやくぶん)で紹介(しょうかい)します。

さらでも教育はむづかしきに教師の苦心さこそと思はるる入谷(いりや)ぢかくに育英舎(いくえいしゃ)とて、私立なれども生徒の数は千人近く、狭(せま)き校舎(こうしゃ)に目白押(めじろおし)の窮屈(きゅうくつ)さも教師が人望(じんぼう)いよいよあらはれて、唯(ただ)学校と一ト口にてこのあたりには吞込(のみこみ)のつくほど成(な)るがあり

(現代意訳文)そうでなくとも教育は難しいのに、これでは教師も大変だ。入谷近くに育英舎という学校がある。私立(しりつ)だが生徒数は千人近くで、狭い校舎に目白押しの窮屈さだが、教師の人望が厚(あつ)く、ただ「学校」と言えば、この辺(あた)りではここを指(さ)すものとすぐに分かるほどだ。

樋口一葉『たけくらべ』(オモドック)
一葉記念館

浅草国際学院の最寄(もよ)り駅の一つも入谷駅です。『たけくらべ』に出てくる育英舎は架空(かくう)とはいえ、入谷近くに評判(ひょうばん)の学校を設定(せってい)していたことに驚(おどろ)きを覚(おぼ)え、不思議(ふしぎ)な思いを感じました。

一葉記念館の前、一葉記念公園内にある「一葉女史たけくらべ記念碑」

「教師の苦心」と一葉も書いていますが、日本語教師(きょうし)にとって、テスト作成(さくせい)も重要(じゅうよう)な職務(しょくむ)の一つで、苦心するものです。

初級を終えたばかり、中級初期の学生に対する試験について紹介(しょうかい)します。

どのテキストがいい[ か ・ かどうか ]、教えてください。

上記(じょうき)の問題について、多くの学生が「か」を選(えら)びました。もちろん正解(せいかい)です。

「どの」という疑問詞(ぎもんし)がある場合は「かどうか」は使いません。「どの~か」で間違いありません。

次の問題はどうでしょうか。

間違いが[ ない ・ ある ]かどうか、見てください。

これは答えが分かれました。

中国出身(しゅっしん)の日本語教師も、「この問題はどちらも正解ですね。判断(はんだん)できないです。」と閉口(へいこう)していました。

確(たし)かに文法的にみると、「ないかどうか」「あるかどうか」の両方(りょうほう)あり得(う)る気がします。

しかし、日本語ネイティブからすると、「あるかどうか」などとは言わない、と一様(いちよう)に言います。

テスト時、その終盤(しゅうばん)に教師はよく「全部できた人は、間違いがないか、もう一度確認(かくにん)してください。」と言ったりするからです。

しかし、日本語学習者(がくしゅうしゃ)は、必(かなら)ずしもそうは思いません。例(たと)えば、次のように言う場合があります。

先生、作文(さくぶん)を書きました。でも、自信(じしん)がありません。間違いがあるかどうか、チェックしてください。

自信がないのだから「間違いがある」ことを前提(ぜんてい)として、上記のように言うのが正しいと、この学習者は思っているのです。

それでも、やはり次のように言うのが自然(しぜん)な感じです。

先生、作文を書きました。でも、自信がありません。間違いがないか(どうか)、チェックしてください。

とは言うものの、テストの問題としては、不適切(ふてきせつ)でしょう。前後の文章(ぶんしょう)もなく、背景説明(はいけいせつめい)もないため、見極(みきわ)めができないからです。

いわゆる「ハイコンテクスト文化」、すなわち「コミュニケーションにおいて文脈(ぶんみゃく)や価値観(かちかん)に対する依存性(いそんせい)の高い文化」の表(あらわ)れの一例です。

こうしたテスト作成は反省(はんせい)すべきです。

日本語学校では、留学生(りゅうがくせい)が大学や大学院で論文(ろんぶん)が書けるよう、「書き言葉」を学習します。

「あきらめないほうがいいと思うよ」という友達からのアドバイスは、話し言葉です。これを「べき」を使って書き言葉に直(なお)す問題がありました。

これに対し、「あきらめないべきである」という答えが非常(ひじょう)に多かったのです。むろん、不正解です。

授業中、この間違いについて注意(ちゅうい)を促(うなが)していても、正答(せいとう)がなかなか書けません。普段(ふだん)の会話(かいわ)では滅多(めった)に使わないからでしょう。もっとも、日本人の若者(わかもの)も誤(あやま)って使っている場合がありますが……。

また、次のような語句が提示(ていじ)されていて、これらを並(なら)び替(か)えて正しい文にする問題もあります。

【 ルール / を / の / について / 多い / 若者 / 知らない / 社会 / が 】

問題を作成した教師が考えた答えは、下記(かき)です。

A1. 社会についてのルールを知らない若者が多い。

しかし、次のような答えも多かったのです。

A2. 多い若者が社会についてのルールを知らない。

これは、い形容詞(けいようし)「多い」の用法(ようほう)に対する認識不足(にんしきぶそく)です。「多い」は術語(じゅつご)として使うのが自然(しぜん)で、名詞修飾(めいししゅうしょく)で使うと不自然な日本語になりやすいのです。

この学校にはフランス人が多い。   〇

この学校には多いフランス人がいる。 ×

この学校には多くのフランス人がいる。〇

「多い」の用法ミスなので、A2の回答は不正解と考えられます。

ところが、次のような解答(かいとう)もありました。

A3. 若者についてのルールを知らない社会が多い。

そもそも、この問題の狙(ねら)いは、「について」を使って名詞修飾の文型(ぶんけい)の理解(りかい)を確認(かくにん)することです。それを考えると上記A3の答えも、あながち誤答(ごとう)とは言えません。

むしろ、若者の立場(たちば)から訴(うった)える様々(さまざま)な社会への痛烈(つうれつ)な批判(ひはん)と受け取れる一文となっています。

このように解答が複数(ふくすう)考えられるテスト問題は、採用(さいよう)するべきではありません。

テスト作成は実に難しい。

以前(いぜん)読んだ小説(しょうせつ)の中に、大学教員の犀川創平(さいかわ・そうへい)という主人公(しゅじんこう)の試験観(しけんかん)について叙述(じょじゅつ)されていました。著者(ちょしゃ)は、自身(じしん)も国立大学の教員だった森博嗣(もり・ひろし)氏です。

犀川は、自分の授業でも試験は一切(いっさい)しない。問題を解(と)くことがその人間(にんげん)の能力(のうりょく)ではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見(はっけん)することだ。したがって、試験で問題を出すという行為(こうい)は、解答者を試(ため)すものではない。試験で問(と)われているのは、問題提出者(ていしゅつしゃ)の方(ほう)である。どれだけの人間が、そのことに気がついているだろう。

森博嗣『冷たい密室と博士たち DOCTORS IN ISOLATED ROOM』(講談社文庫)

もう一書、 谷口隆(たにぐち・たかし)著『子どもの算数、なんでそうなる?』には、テストについてこうありました。

マルとペケは特定の意味を持つ記号だが、元来これらには、良(よ)し悪(あ)しの価値判断(かちはんだん)は含(ふく)まれていない。ペケとは、考える素材(そざい)の提供(ていきょう)である。そう考えることが本当の学(まな)びのための出発点(しゅっぱつてん)になるのではないだろうか。

谷口隆『子どもの算数、なんでそうなる?』(岩波科学ライブラリー)

教師として、試験の意義(いぎ)と向(む)き合いつつ、最高のテスト作成を「あきらめるべきではない」と心して、努力(どりょく)していきます。